ヨナ1:1−2:1/ヘブライ2:1−4/マルコ4:35−41/詩編125:1−5
「イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」」(マルコ4:40)
キリスト教徒としてのわたしたちの生涯は、イエスがキリストだと信じたその瞬間から「まだ信じないのか」との声を聴き続ける歩みのような気がします。いつまで経ってもこのイエスの言葉「まだ信じないのか」からほとんど進歩していないのです。
このイエスの言葉はいろいろに翻訳されていて、それぞれ少しずつですが伝わってくる力点が異なります。
慣れ親しんできた口語訳聖書では「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」。聖書協会共同訳では「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」。岩波版聖書では「なぜ、あなたたちは臆病なのだ。信仰が全くないのか。」。聖書新改訳2017では「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」。田川健三訳では「何故こわがるのか。まだ信頼を持たないのか。」。リビングバイブルでは「どうしてそんなにこわがるのだ。まだわたしが信じられないのか。」。捜せばまだまだ出てくるのですが、先ずこの辺りで十分でしょう。「信頼」と訳しているのは田川版ですが、岩波版も脚注に「「信頼」とも訳せる」と書いています。「信仰」という名詞に訳しているのがほとんどですが、新共同訳やリビングバイブルは「信じる(信じない)」という動詞に訳しています。
先週「その人たちの信仰」(マルコ2:5)という箇所で「信仰」ということを考えました。あの場で問われているのは神あるいはイエスへの、いってみれば素朴な信頼のことであって、今わたしたちが持っているとしているところの「信仰」とは「キリスト教」への信仰、教えや教義への信仰を指す場合が多いわけだから、「その人たちの信仰」とは少し違うだろうということをあの時見たわけです。だから今日のこの箇所も、イエスが自分に対することとして弟子に語っているのだとすれば「信仰」というよりは「信頼」というイメージの方が強いでしょう。一方、例えば旧約聖書詩編などで盛んに謳われているように、自然現象に対して神が怒るというモチーフをこの箇所に見るとすれば、「神」の「力」への恐れ、つまり「信仰」というイメージになるのかも知れません。
どちらにせよ、イエスによって叱責された弟子たちには神に対してもイエスに対しても信頼も信仰もないと叱責されているわけで、面目丸つぶれ状態です。
ところが不思議なことに、では弟子たちはイエスを全く信頼していないかと言えばそうでもないフシがあります。それは38節です。「弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。」。これは、こんな事態になっても呑気に寝ているイエスに対する弟子たちの非難の声ですが、でも見方を変えれば「イエスなら何とかしてくれるのではないか」という期待も込められているように読めます。それはそれで弟子たちのイエスに対する信頼、信仰だったのではないか。近代合理主義の洗礼を受け、科学万能を教え込まれてきたわたしたちが、奇跡そのものを疑っているのとはずいぶん違って、むしろ弟子たちは、わたしたちのそれに比べれば、かなり信仰深いとさえ言えるのではないでしょうか。
わたし自身で言えば、イエスがキリストとしてお生まれになり、キリストとして振るまい、キリストとして十字架で殺され、キリストとして死んで陰府に降り、キリストとして復活し天に昇られたということをキリスト教の教えとしては多分信じているけれど、わたし自身はイエスをそのようには思っていないところが多分にあります。キリストとして云々はそれこそキリスト教として発展していく段階で纏められた教義そのものであって、イエス自身はそのような思いもなかったしそんな気にもなっていなかったのではないかとさえ思えるのです。そんなわたしに、今日の「嵐を鎮めるイエス」の奇跡は激しく迫ってくるのです。
先ほど、詩編の中で「自然現象に対して神が怒る」というモチーフを取り上げました。神ヤハウェは人間を脅かす諸力に対して叱責します。例えば詩篇106編9節や107編28節29節などです。その他にもたくさんそのモチーフがあります。つまり、自然現象を叱責するのが神の力なのです。その力を今、イエスが舟の上で嵐に対して発揮している。イエスが神に祈って嵐を鎮めたのではなくイエス自身の力によって嵐を鎮めた。この奇跡物語は「イエスが神だ」と示しているわけです。それはわたしの信仰に対する激しい迫りです。だから、弟子たちの言葉はそのままわたしの言葉なのです。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(同41)。
弟子たちは奇跡を目の当たりにして「非常に恐れ」ます。さっきまでの「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」(同37)の危険の中で臆病になったのとは違って、イエスが神的存在であることに直面して、それゆえに生じた畏怖の念だったのです。
わたしたちもまた、イエスを目の前にして、イエスに対する畏怖を覚え「非常に恐れ」るでしょう。そしてイエスから「まだ信じないのか。」と言われるでしょう。むしろそのように言われ続けることにこそ、わたしたちの生きる意味があるのかも知れません。迷いつつ従う。完全に信じることが出来ないまま、完全に信頼も出来ないまま、しかしイエスのあとについて行くしかない。もはや別の道には進めない。だけど心から信頼し全てをゆだねきることも出来ない、何よりイエスに対して畏怖の念がある。それが正直なわたしたちの姿です。そうであるならばそうであるままに従い続けるしかない。わたしはそう思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの歩みはいつまで経ってもわたしたちの主イエスから「まだ信じないのか」と叱責されることから逃れられません。けれども全く別の道に進むことも出来ないのです。わたしたちはそのようなままであなたに従おうとしています。様々な思いを抱えたままであなたに従ってゆくことをどうぞどうぞ赦し、導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。